ijn9266のブログさんより転載

真実は当初から超国家権力によって隠蔽され続け、20数年間深い闇の中にあった。しかし、近年になってようやく、新たな証言者が現れ、この問題を長年追い続けて来た人達と結びつき、遂に闇の核心部分に光が当たるようになった。墜落は単なる事故では無く、驚天動地、世界規模の大事件だった!(以下参考サイト)



☆世界の真実の姿を求めて!TV新聞報道では、助かった4人以外に少なくとも生存者が3人、合計7人の生存者がいた。しかし、3人は報道直後突然失踪!彼らは一体どこへ消えたのか!?



さらに最低50人くらいの生存者が墜落現場にいた、指先が1本ちぎれただけの男の人もいた、と、まだ夜も明けやらぬ現場に駆けつけた若者は証言!生存者達も同様、墜落現場では多くの人達が助けを呼んでいたと証言。



☆川上慶子さん(当時12歳)は、同乗の両親と妹が亡くなるも奇跡的に生還。病院を退院後、島根の実家に帰った際に証言:墜落したあと、ふと気が付いたら周囲は真っ暗だった。あちこちでうめき声が聞こえ、私の両親もまだ生きていたような気がする。しばらくすると前方から懐中電灯の光が近づいてきたので助かったとおもった。そのあとまた意識がなくなり、次に目が覚めると明るくなっていたが救助の人は誰もいなくて、周りの人たちはみんな死んでいた。(慶子さんは意識が無くなって幸運だった。もしその時懐中電灯の人物に助けを呼んでいたら、彼女の今日は無かっただろう。近くに居た、落合由美さんや吉崎さん母子の今日も…理由は後述。)



☆日航機元客室乗務員、作家・安部譲二氏談:御巣鷹山近くの複数の住人が、123便が炎をあげて墜ちてきた、光るものが飛んできたと証言している。(これこそ123便が空中で爆発した目撃証言ではないのか?何故事故調査委員会はこの証言に耳を傾けなかったのだろう?空中爆発だと何が都合悪かったのだろう?)



☆日航123便墜落事故群馬県医師会記録 救助がもっと早ければ……空白の15時間



☆元日航職員佐宗邦皇(さそう・くにお)氏の証言(動画開始後2分10秒辺りから):JAL123は小型中性子核ミサイルによって撃墜された

貝のように口を閉ざす日航関係者の中にあって、佐宗氏は自らこのJAL123便墜落事故の調査を行い真実を発信する大変貴重な日航関係者だった。2009年8月9日午前11時突然帰らぬ人となるまで、その活動は続いた。享年59歳。



☆JAL123便撃墜の証拠が写真誌フォーカスに!!第3エンジンから突き出る不発弾と思しきファルコンミサイル!

軍事専門家談:これは大型機撃墜のため開発されたファルコンミサイル。1985年当時における空対空ミサイルの起爆タイミングは、命中直撃を無理に狙わず、敵機近傍で爆発し、確実にダメージを与える「近接爆発方式」が主流。ただし、ファルコン系列ミサイルは、「直撃」が可能なら自律的にそちらを選択する。(「ミサイルは近接信管(きんせつしんかん)だから123便に命中する前に爆発するはずだ。このサイトの筆者はそんなことも知らないのか!?」等という馬鹿にしたような書き込みが時々ある。この方は自衛隊関係者なのかもしれないが、ファルコンミサイルの実際を知らないようだ。軍事専門家によれば、ミサイルはセンサーが敏感過ぎてちょっとの振動で爆発しても危険なので、敏感すぎないよう調整されており、その理由からおよそ50%は不発弾になってしまうという。)



☆墜落現場123便第3エンジン付近に散乱する米国レイセオン社製空対空ミサイルの部品!

ブログ主:これまで私が書いてきたことに対して、色々なご意見やご批判があるようですが、お願いしたいのは、人生、たかだか数10年のご経験やそこから得てきた常識だけで物事を判断するのを止めていただきたいことです。読者の皆様に限らず、この調査に協力していただいているメンバー全てが、最初は目の前に突きつけられた現実に対し拒絶の念を覚えながらも、自身の経験と常識を乗り越える選択をし、このブログでの発表を決意したのです。(中略)批判を行う方は、少なくとも現地を訪れ、群馬県上野村、および事故現場周辺のあの独特の雰囲気を肌で感じてください。また、土の採集や放射線測定器で調べればより多くのことがわかってくるでしょう。ただし、くどいようですが、現地は最高レベルの監視体制下に置かれていることだけは、初めにご忠告申し上げます。



☆墜落現場に残るイエローケーキ(核兵器に使用される軍用の濃縮ウラン、錬度が高く、レンガ色をしている。墜落現場で収集した方が123便事件講演会会場に持ち込んだところ、多くの人が体調に異変を来たす。その症状から放射性物質と判明したという。)



(新)日本の黒い霧-現場に散乱する破片を収集、軍事専門家による分析の結果驚愕の結論に至る  



田村珠芳-軍事使用目的プルトニウム運搬、目撃者殺害/誘拐による隠蔽工作  



NEWS U.S.- 戦後日本最大級の事件、日米露を巻き込んだ軍事衝突 



犠牲者の霊に導かれ…現場に小型中性子核ミサイル使用の痕跡を見る



日本と世界の闇の権力者間で起こった核兵器開発を巡る軍事衝突。その背景には為替レートを円高誘導せよという国際金融寡頭勢力と、それを拒否する日本経済界の壮絶なしのぎ合いがあった。





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今年も8月12日、日航123便墜落事故の日が巡って来る。この事件は16年後に起こる、911事件と似通っている。列挙してみると。



① 明らかに素人でも分かる嘘をつき、国家ぐるみで真実を隠蔽しようとする。例:圧力隔壁破壊の嘘。

② 軍事演習の最中で起こった、核兵器使用の痕跡を残す、尋常ならざる破壊の跡と情け容赦ない乗客殺害部隊。

③ メディア総動員による撹乱。大衆を真実から遠ざけようとする、超国家的権力の存在。

④ 以後の世界的変化。



まず①の「明らかに素人でも分かる嘘」について。



上空8000mで機体に大きな穴が空けば、他の航空機事故に見られるように、機内に急減圧が発生。機内の物は人間を含み外へ吸い出される。空気が薄くなることから、実験では5分くらいで一般人なら意識を失う危険な状態に陥る。しかし、生存者の落合由美さんの証言ではそんな事態は起こらなかった。という訳で事故調査委員会の公式発表「圧力隔壁破壊」は子供でも「嘘」とすぐ分かる。

http://www.goennet.ne.jp/~hohri/n-ochiai.htm



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事件の日、日米合同軍事演習が行われた。海では、相模湾。伊豆沖で当時の最新鋭護衛艦「まつゆき」を中心に艦船、潜水艦が出動。空では、茨城県百里基地所属の航空自衛隊戦闘機、また航空自衛隊や在日米軍の電子戦機が待機。はるか上空では米軍の軍事衛星が演習を監視。陸では、ゲリラ訓練場となっている御巣鷹山とその周辺に、特殊部隊が集結。



18:12 JAL123便は羽田を離陸。12分近く経過したとき、相模湾上空で123便のクルーは、右前方から接近する奇怪な飛行物体を発見。コックピットに緊張感が走る。乗客も気付いていた。「あれは何だ?」、「ミサイルのようだ」、「こっちに向かってくる、危ない!」



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レビ報道の映像を見て、現場が村内の「スゲノ沢」であると判断。土地勘のある消防団員に捜索隊の道案内をするよう要請。



墜落からおよそ14時間が過ぎた午前8時半、長野県警機動隊員2名がヘリコプターから現場付近にラペリング降下。その後陸上自衛隊第一空挺団の隊員が現場に降下して救難活動を開始。陸路からは、上野村消防団、群馬県警機動隊、警視庁機動隊、陸上自衛隊、多野藤岡広域消防本部藤岡消防署の救助隊が現場に到着。ようやく本格的な救難活動が開始される。



縦割り組織警察の常識を無視して「全員死亡による救助打ち切り命令」で動けない群馬県警管轄地域へ越境進入したのは長野県警レスキュー隊。また、早々と現場で「全員即死宣言」をした自衛隊幹部に「まだ生存者がいるぞ!!」と怒鳴って救助活動を促した報道関係者や消防団員の人達。彼等がいなければ、落合由美さん達女性4人も助かっていなかっただろう。



「現場にいたある消防団員は『最初は医師・看護婦は現地に送り込まれていなかった。生存者が発見されてから急にあわてた。生存者に対する準備ができていなかったような気がする』と話していた。はじめから生存者がいないと決めてかかっていたのではないかと私も感じた」(元日航パイロット藤田日出男著「隠された証言・日航123便墜落事故p.56、8行目)



「11時生存者発見、12時仮設ヘリポートへ、ヘリポートで1時間30分以上待たされ14時15分ごろやっと病院へ搬入」(元日航パイロット藤田日出男著「隠された証言・日航123便墜落事故p.55、2行目)…せっかく発見され一刻を争う救命処置が求められる生存者を現場に2時間近く放置、病院搬入まで3時間以上も費やしている。まるで生き延びてもらっては困るかのように。



②の核兵器使用の痕跡と、情け容赦無い殺害部隊の存在



核兵器使用の痕跡。ピカッと雷光のように走った閃光、黒いキノコ雲が目撃されている。



墜落現場に残るイエローケーキ(核兵器に使用される軍用の濃縮ウラン、錬度が高く、レンガ色をしている。墜落現場で収集した方が123便事件講演会会場に持ち込んだところ、多くの人が体調に異変を来たす。その症状から放射性物質と判明したという。)





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骨が約3cm刻みの破片になって飛び散るほどの、広島原爆の30倍以上と推定される衝撃。これらは小型の核爆弾使用を示唆している。決して不時着態勢に入っていた速度の航空機のものではない。

元日航職員佐宗邦皇(さそう・くにお)氏の証言(動画開始後2分10秒辺りから):JAL123は小型中性子核ミサイルによって撃墜された)



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東大地震研究所の微小地震計が、墜落時刻に異常振動を観測、記録している。第一波は18:56:26、第二波は3秒後。これら二つの波は極めて微小な物。墜落の衝撃だ。しかし18:56:31から観測された第三波は、約5秒間揺れ、その後も10秒近く揺れる大きなものだった。最初の二つの波は航空機の地面衝突によるものだろう。しかし、第三波は一体何だったのか?広島原爆の30倍を超える小型核爆弾の衝撃ではなかったのか?(池田昌昭「完全犯罪JAL123便撃墜事件」)ミサイル使用の痕跡。 この遺体散乱状況写真を見ると、123便の進行方向に対し、右側からミサイルと思しき爆発物が命中し、乗客・乗務員を左前方に吹っ飛ばしたことが分かる。



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乗員乗客殺害部隊の存在



8月13日04:00頃 墜落翌日まだ夜も明けぬ早朝、白バイを振り切って、長野県からオフロードバイクと徒歩で駆けつけた若者達2人。生存者の呻き声が谷にこだまし、響き渡っているのをはっきりと聴いた。およそ50人と推測。指が欠損しただけの、比較的軽症の人も。この人は助かる、と確信。既に到着していた100名くらいの自衛隊員。片手に抜き身の大型アーミーナイフ、目には暗視ゴーグル、また、靴は急峻な山での作業に適した短靴。1時間後、次の部隊が続々と到着。後から来た部隊は山で歩きにくいブーツ着用。(「救助に向かう自衛隊は武器を携行しない。もし携行するとすればその手続きは煩雑で必ず証拠が残って居る。その証拠が出ていない以上、このサイトに書いてあることは悪質な作り話である」という書き込みがこのサイトにあった。その人は自衛隊関係者で実際の武器携行手続きの経験から言っているのかもしれないが、世界の厳しい現実を知らないおめでたい人、という他無い。)



しかし、彼等は一向に生存者の手当をしようとはしない。大きな袋に何かを集めて入れる作業を黙々と続け、上空でヘリコプターがホバリングしながら集めた袋を回収するのみ。何故だ!?何故この部隊は救助をしない!?目の前で多くの人々が手当を待っているというのに!!人命より優先される回収物とは、一体何だ!?以下にその件についてのウェブサイトを紹介する。



「JAL123便墜落事故-真相を追う- 闇夜に蠢くもの(4)」

http://blog.goo.ne.jp/adoi/e/9218d78bddf9f12a9d7bdc8ebec1c10a 



このオフロードバイクと徒歩で駆けつけた若者の一人は24年間海外勤務にあって真実を語る機会が無かったが、2010年5月16日、江戸東京博物館にて、その日目撃したことの証言を依頼される。ところが、講演の2週間前、アクシデント発生。車の後輪がバースト。あわや死亡事故につながる緊急事態を咄嗟の運転テクニックで回避する。損傷部分を検証した結果、軍関係者しか持たない、熱戦銃によるものと判明。「123便事件の真実について、これ以上語るのを止めよ」というメッセージが彼に送られる。幸いにも、かろうじて講演会当日は会場に無事駆けつけ、証言することができた。


話を墜落の日の翌朝に戻そう。日が昇ってからも奇怪な事が起こる。公式に生存者とされる4人の女性以外に、3名乃至4名の生存者が目撃されている。生存4人の現場からさらに200mの急斜面を登ったところにいた朝日新聞社の社会部記者が「今さらに3人の生存者救出!2人は担架に乗せられているが、1人は担架が必要無いほど元気な女の子で、救助隊員に抱かれている。」と無線で報告。





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朝日新聞前線キャップ木村卓而氏は『一人の女の子は、担架に乗らないほど元気で、救助隊員に抱かれている。他の二人は毛布をかぶされているため、男女の別やけがの程度ははっきりしない』と元気で無事救出された女の子のことを報告。だが、その後女の子はどうなったのか?突然存在が消えてしまう。



また、8月13日午前9時~10時頃、地元上野村消防団が墜落現場に、獣道を伝って登っていく途中で、沢伝いに下ってくる「中学生くらいの男の子を含む男性四人連れ」に遭遇。衝撃の現場から来たというのに、挨拶しても返事もしない、何も語らない、不気味な沈黙の集団。「沢伝いに下りてくる、中年の男性三人と中学生くらいの少年が加わった四人のグループに出くわした」飯塚訓(いいづか・さとし)著「墜落現場、遺された人たち」p.119、5行目~。





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この男の子は一体どこへ連れ去られたのだろうか?「この少年は生きているのではないのか?私の知り合いの医療関係者は、筋肉の張り方など自力で腕を上げていると観察され、この時点では明らかに生きているだろうと語っている。」元記事





さらに、7歳~8歳くらいの小さな男の子が13日午前「走り回っている」ところを自衛隊員に発見されている。報告は無線でただちに流された。報道関係者もこの無線を傍受。「男の子発見」のニュースは流れた。フジテレビの「ニュースレポート」では、マイクを握ったフジの山口氏が『現場は惨憺たる状況です。まもなく、担架に乗せられた七、八歳の少年が運ばれてきます……。』と生中継。しかし、この「男の子」に関する情報が途絶。以後、まるで神隠しにでも遭ったように、その後の「7歳~8歳くらいの小さな男の子」の消息は杳として知れない。



③のメディアによる撹乱。NHKを始め、民放各局は事故直後からわざと偽の墜落地点情報を流して、救助隊の派遣を遅らせた。墜落現場には米軍ヘリが既に到着していた。以下「JAL123便墜落の真相」から引用。



http://ugyotaku.web.fc2.com/JAL123Sinsou/JAL123Sinsou.htm#S10 



「やがて真っ暗闇のなかに、ヘリコプターの音が聞こえたのです。あかりは見えないのですが、音ははっきり聞こえていました。それもすぐ近くです。これで、助かる、と私は夢中で右手を伸ばし、振りました。けれど、ヘリコプターはだんだん、遠くに行ってしまうんです。このときもまだ何人もの荒い息遣いが聞こえていたのです」(落合由美さんの証言)。

このように、1994年9月25日の「ニュース・ステーション」は、日本側の都合による米軍救援活動中止要請が事実であることを報道しています。何ということでしょう。米C-130は午後7時30分に墜落場所を特定し、20分後には横田基地に正確な墜落場所を知らせているのです。もちろん日本側にもその時点で伝えられています。



最後に④の世界に起こった変化。日航123便墜落事故の翌月22日、歴史的なプラザ合意から円ドル為替レートが250円/ドル台から1年後には一気に120円/ドル台に円が急騰。



急激な円高を受けて、以降日本経済は輸出企業を中心に大打撃を被る。そして日銀の窓口指導による、バブル創出、崩壊、金融ビッグバンによるM&A等で外資ハゲタカファンドの進出、郵政民営化、莫大な国富の喪失と続いて行く。これらは決して偶然では無い。全ては仕組まれたことだった。ある闇の勢力によって。





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助かっていたはずの乗客達。不幸にも軽症すぎたがため、また不運にも見つかってしまったが故に、最後の最後で、彼等は口封じのために殺された。911事件と同様、航空機事故遺体に模して。決して知られてはならない秘密があったから。そうとしか考えられない。無念であったろう…震えが止まらない。



この墜落現場で「生き残った罪も無い乗客、乗務員にとどめを刺した者達」は恐らく国籍が日本では無い、と信じたい。来るべき極東有事を演出するために特別訓練された、日本の自衛隊を偽装した部隊の可能性が高いのでは?任務遂行のみに全神経を集中する訓練と共に、部隊を編成するに当たって「日本人を嫌悪する教育」を受けた者達が選ばれたのではないか?



123便の乗客、乗務員はこの者達の手にかけられ、処分された。殺人鬼が迫って来る瞬間、彼等は一体何を思ったのだろうか?『お前達は何者だ!?乗客乗員の救助に来たんじゃないのか?』現場で何が起こっているのか、理解している人はほとんどいなかったであろう。彼等は無残にも、毒ガスで息の根を止められたり、火炎放射器で生きたまま焼かれた。









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尋常ならざる遺体の状況 参考ウェブサイト:http://www.asaho.com/jpn/bkno/2010/0809.html 



ジェット燃料は高くて1400℃に到達するというが、それは灯油の1100℃とたいして変らない。実体はほとんど灯油と同じと考えてよい。写真の子供は頭部の輪郭が崩れる程激しく燃えており、ジェット燃料(灯油)が原因ならば、まとまった燃料が本人にかかり燃えた、あるいは近くで激しく燃えていたことになる。しかし、子供の遺体に寄り添うように生えた木立にはほとんど焦げ跡がない。しかも雑誌の文面には「紙幣や書類が周囲に散乱していた」(写真誌フォーカス)と記載されている。ジェット燃料はこの子だけをめがけ飛び散り、この子だけを燃やして火は収まったというのだろうか?この不自然な状況を説明する理由を私はこう考える、「この子はごく間近から火炎放射器で焼かれたのだ」と。元記事



当時、遺体の歯形で本人確認を行った大國勉氏(歯科医師、群馬県警察医会副会長)に、青山さん(元日航客室乗務員、青山透子氏)は何度もインタビューを試みている。「私は群馬県警察医として千体ほど焼死体を見てきたが、それでも歯は『すす』で黒くても、裏側や一部は白いままだし、骨もそこまで燃えていない。なのに、あの事故の時は骨の奥まで炭化するほど燃えていた。…二度焼きしたような状況だ」。周囲の木々が幹の中までは燃えていないのに、遺体だけが骨の芯まで焼かれているのはなぜか。群馬県の検視報告書において担当医が「二度焼き」という言葉を使ったことは、ただごとではない。





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写真上:女性4人の生存者が見つかったスゲノ沢の上流で発見された携帯用VXガス兵器と思しき容器。20数年経って、瓶には微量の液体が残っていた。持ち帰る際、念のため何重にもビニール袋で密封したが、調査に当たった方達2人は、密封を解いた途端気分が悪くなり、数日間寝込んでしまったという。



また、当日墜落現場付近で偶々キャンプをしていた高校生がいる。この高校生も多くの生存者がいたと証言している。転載元サイト:http://hyouhei03.blogzine.jp/tumuzikaze/2010/08/123_0fc5.html (転載開始)



まだ 私が高校3年生だったころです。その当時私はキャンプにはまっていました。夏休みが始まる前、クラスの友人6人と何処でキャンプをしようという話になりました。神奈川県内のキャンプ場で飽き足らなかった私は、群馬、長野、どちらかですることを思いつき、有鱗堂(ゆうりんどう)という本屋で地理院(?)の等高線なども詳しく書かれた地図で、あの日に泊まった場所に目星をつけました。なにせ高校生でしたから現地まで行って確認するにはお金が無かったし、キャンプ場でするのが嫌でしたから、綿密な下調べが必要だったのです。沢山の地図の中からあの場所を探し出すのはとても大変でしたが、なにか強烈に引き込まれるような そんな場所でした。(これは気のせいかな?)



そして あの夕暮れ・・・ 私は陽が暮れる前に なんとかカマドに火を入れておかなければならないと、少し湿った小枝をかき集め新聞を燃やしたりして炭に火を点けようとがんばりますが なかなか点きませんでした。



そうしているとジェット機の音が聞こえてきたのです。音だけで、辺りを見回しても飛行機は見えません。すると ジェット機の音は聞こえなくなりました。「けっこう 低く飛んでいるような音がしたんだが・・・」と思いましたが、あまり気に留めはしませんでした。またカマドと格闘しだしたのですが、すぐにまたジェット機の音が聞こえて来ました。今度はずーと 聞こえています。また私は辺りを見回してジェット機を探しました。



すると、なんと、私たちの頭上を飛んでいくジャンボを見たのです。車輪も下りていました。「はぁ??何処に着陸するんだろう・・・??」私はしばらく、ぼーっと見ていました。ダッチロールをしていたかどうかは分かりません。



私は厚木飛行場のそばに住んでいましたので、騒音から逃れる為に長野まで来たのですから「このそばに飛行場があるのなら私の選定ミスだな」などと考えながら見ていると、私から2~3メートルの左手の所に小学校3~4年生と思われる男の子が立っていたのです。



その姿はうつむいていて顔は見えません。そして上半身だけがボーっと浮いているのですが、しっかりと立っている様に見えました。洋服は半そでの黒か又は濃いグレーのTシャツで、胸の真ん中あたりに白のローマ字で何かが書かれています。背丈からして小学生と見た私ですが、その時私が感じたのは "寂しい"という、彼のとても強烈な感情でした。本当に寂しそうに立っていました。それを見たのはとても短い一瞬のことでした。一瞬のうちに(わ)っと彼の感情が私の中に入ってきたのです。私は「え・・・・?」とそちらに視線をずらした瞬間・・・  

今度は左40センチのところから、女性の頭部が私の左頬にぶつかるように飛んできたのです。その女性は歳で言うと20歳代です。その表情はとても凄惨な顔でした。どんなに上手な役者さんでも、きっと作ることは出来ないでしょう・・・口惜しさ、寂しさ、悲しさ、人の感じえる陰、全ての感情が詰まって"助けて~" "助けて下さい"でした。もうわたしは半分パニックです。「無理だから・・・俺には無理だから・・・ごめんね・・」心の中でそう言い続けるしかありませんでした。すると男の方の声で"だめだ・・・この人たちは助けてくれない"そう聞こえました。

私は「ごめんなさい」「ごめんなさい」そう思い続け、声も聞こえなくなってきたので恐る恐る視線を上げると、青白い光も全く無くなっていて大部分の方々も居なくなっていました。それでも20人位の方はいたようです。その後は何事も無く翌朝を迎えたわけですが、その時点で墜落したことは思いもよらず、ただただおののいていた私です。
(転載終わり)



墜落現場へ救助に向ったと思われる警察の救助ヘリの残骸が見つかっている。彼らも何者かによって空対空、或いは地対空ミサイルで撃ち落とされたのか?また、当日午後8時頃、TVのテロップで「救助に向かおうとした自衛隊員を別の自衛隊員が射殺した」との報道があったという。 http://www.youtola.com/question/cewawsxece.html 事件の後で、勇気を持ち、真実を語って、自殺を装い殺された自衛隊員もいる。911事件でも乗客の殺害はイスラエルの諜報機関モサドが担当したという情報がある。同国籍人で無ければ、何の躊躇も無く殺害マシンとなって、乗客乗員のみならず、救助隊でさえ抹殺できるからか?



写真aは林中で見つかった2名の隊員、写真bは暴露された尾翼写真、尾翼に外部から飛行物体が激突した証拠。彼等はこの写真をリークしたため殺害されたのだろう。





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国を売った者達は、第二次世界大戦時の軍人としては山本五十六大将、米内光政大将、宇垣 纏中将などがいた。軍部のみならず、各界のトップに売国奴が君臨している状況は、今も昔と何ら変わりは無い。



彼等は国家や、大企業の要職を占めるものの、少数派である。大多数の、良識ある国民が真実に目覚めれば、彼等も悪事を働くことが難しくなる。この123便墜落事件を通して、この機会に真実を見抜く眼を養ってみては如何だろうか?



123便墜落事故をモデルとした、山崎豊子氏の小説「沈まぬ太陽」(1995年、平成7年から順次発表、3編に渡る長編小説)が映画化、2009年秋封切。小説では日本航空の腐敗、利益追求第一主義を指摘。もとより事件の本質解明に至ってはいないものの、かなり近い線まで迫っている。この事件は恐らく、2011年3月11日の地震兵器による東日本大震災、津波、核兵器による原発事故と本質でつながっていると思われる。



日本航空の経営を圧迫した大きな要因に、911テロ事件、SARS等々の事件があるが、それらは全て国際金融寡頭勢力が起こしたものであった。そして今回取り上げたJAL123便撃墜も。日本航空のトップと、その巨悪とのつながりを紐解けば、この事件の本質がみえてくるのではないだろうか?





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映画封切りのタイミングは、日本航空国営化に賛成世論を形成する目的があったと思われる。空の安全を目指した小説・映画のはずが、却って「日本航空機を使ったテロを起こしやすい環境」を整えるのに協力するという、何とも皮肉な結果を招いてしまった。



日本航空123便墜落事故。言うまでも無く、これは単なる事故ではない。ハッキリ、事件である。それも世界規模の大事件である!



事件の真相を知る政府、日航関係者は、勇気を持って口を開いて欲しい。そうすればこんな悲劇は二度と起こらないかもしれない。そして何よりその事が、亡くなられた方々への最大の供養になるのだから。








8月12日 日本航空123便墜落事故 の日ですね



数十年前の あの夏のことは 小さいながら覚えています

我が家はとても緊迫した空気になりした



この日を忘れないためにもアップいたしました



プラザ合意のための脅しだとか 様々な憶測があり

色々裏があるのでしょうが





こういう悲劇は二度と起こして欲しくないですね